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桶狭間合戦前夜!織田家大解剖!

 

 

ども、戦国マニアの和歌山ブロガーきゃろたまです。

今回は、おんな城主直虎を語っていくうえで、ココを外して語ることはできないであろう織田家について話をしたいと思います。

 

 

織田家と今川家、家柄は雲泥の差!

桶狭間の戦いで、今川義元は不覚にも討ち死にしてしまいます。そして、織田信長が大きく飛躍することとなった戦いが桶狭間の戦いです。義元にしてみれば、まさか自分が桶狭間の戦いで負けるとは思っていなかったでしょう。

今川義元駿河遠江2か国の守護でした。守護というのは、簡単にいえばその国の一番偉い人になり、もう少し詳しくいうとその国で警察権と裁判権を行使できる人のことです。

一方、織田家は尾張守護・斯波家に仕える家柄で、さらに細かな家に分かれていました。応仁の乱以降、斯波家は次第に力が衰え、1500年代に入ると遠江守護職を今川家に奪われてしまいます。ちなみに井伊家は前田吟さん演じる井伊直平が斯波家に味方していました。だから直平は、今川が嫌いなんですね。

また、三河松平家の支配下にありましたが、これも次第に今川家の力に押され、松平広忠は嫡男の竹千代(のちの徳川家康)を今川家へ人質に出すことで今川家の庇護を求めました。しかし、竹千代は家臣の戸田康光の手によって今川家ではなく、敵方の織田家に引き渡されてしまいます。

大河ドラマおんな城主直虎では、竹千代が今川家の人質となっていることに解説はありませんでしたが、1549年に三河安祥城を守っていた織田信広が、合戦の末に今川方に捕らえられてしまい、交換条件として竹千代を今川方に引き渡すことで、信広は解放されました。



織田家の状況

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信長が生まれる以前から織田家は、尾張上四郡の守護代・伊勢守家と、尾張下四郡の守護代・大和守家に分かれていました。そして信長の家(弾正忠家)は、さらに大和守家の奉行の一家に過ぎませんでした。

しかし、父・信秀が非常に武勇に優れていたため、美濃から尾張に攻め入る斎藤道三や、三河勢力を拡大してきた今川義元とたびたび合戦をおこない、次第に織田家のなかで影響力を持つようになりました。ちなみに前回の大河ドラマ真田丸で、大坂城に籠もる信繁(幸村)たちの邪魔ばかりしていた井上順さんが演じる織田有楽斎は信秀の十一男になります。



信長の家督相続と尾張の混乱、そして桶狭間の戦い

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1551年、織田信秀は病により、この世を去り信長が跡を継ぎました。 信秀の死によって、尾張の東側に位置する鳴海城主の山口氏が今川方に寝返ってしまい、また周辺の大高城、沓掛城も今川方の城となります。以後知多郡は今川家の影響下におかれ、たびたび信長は周辺で今川方と合戦に及びます。

隣国の美濃は、信長の舅・斎藤道三が治めていましたが、1556年に子・義龍によって討たれてしまいます。

さらに、弟・信勝(信行)も兄・信長に対して反抗し、信長は1557年に仮病を使って信勝をおびき出し、清洲城にて誅殺しました。

1559年になって信長は、ようやく尾張の大半を支配下に置くことができ、丹下・善照寺・中島・丸根・鷲津と砦を築き今川方の鳴海城・大高城を包囲することに成功します。

今川義元としても、これはまずいと思ったのでしょうか。自ら大軍を率いて尾張に攻め込むことになりました。信長にしても、ただ単に今川方の軍勢を追い払うだけでは、今川家の脅威を取り除くことができず、かつ大将が城外に出てきているワンチャンスに賭けたのでしょう。

桶狭間今川義元が討たれたことにより、東海地方の勢力図は一変してしまいます。もし、桶狭間の合戦がなければ、織田信長が天下取りレースのトップに躍り出ることがなかったかもしれませんね。