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君に家督を譲らない~武田義信廃嫡事件と今川家について解説!

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こんにちは、歴史に詳しい和歌山ブロガーきゃろたまです。

大河ドラマ『おんな城主直虎』みなさん観ていますか??

第18回・19回放送では、武田信玄の長男である武田義信が廃嫡されて、幽閉されたと今川氏真に連絡が入ります。この事件をきっかけに、今川家と武田家との仲がだんだんと悪くなっていきます。

 

長男を廃嫡するということは、武田家にとっても大事件でした。
ではなぜ長男義信を廃嫡する事態に発展したのでしょうか。

 

 

武田義信の表向きの廃嫡理由は「謀反」その裏では…

 

1564年(永禄7年)7月に、武田義信の傅役である飯富虎昌、側近の長坂昌国らが武田信玄暗殺計画を企てます。しかしその計画が虎昌の弟である山県昌景の密書によってバレてしまい、翌年1565年1月に飯富虎昌らは処刑されてしまうのです。

そして、義信は10月に甲府にある東光寺に幽閉され、今川家から迎えたお嫁さんの嶺松院は、強制的に離縁させられます。

 

今川家としては武田信玄のことを信頼してお嫁さんを送り出しているわけですから、それを離縁させられるということは「もう今川家とは仲良くしません」ということを意味するのです。

 

戦国時代の跡継ぎは正室から生まれた長男であることが一般的で、無用な家督争いを避けるために、ほかの男子は他家に養子に出したり、僧侶になる人もいました。

 

そして、「廃嫡」というのは「跡継ぎとしての権利を剥奪する」ことです。
いままで信玄は「君に家督を譲るよ!」と言っていたのが、

「君に家督を譲らなーい!」と言いだしたのです。

 

表向きは、義信が謀反を企てたことになっていますが、その裏には「織田信長と仲良くしたい」という思惑が隠されているのです。

 

武田家以外の戦国大名のこのころ

では桶狭間の合戦以降、ほかの大名はどういう状況だったのでしょうか。

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今川氏真

1560年の桶狭間の合戦で今川義元が戦死し、22歳で跡を継いだ氏真ですが、松平元康の三河独立を阻止できず、またあらたな人質を要求したため、親今川方だった東三河の国人たちにも見放されます。

1564年に飯尾連竜が離反し、氏真は三浦正俊に飯尾連竜を攻撃させますが、逆に三浦正俊が戦死してしまい、衰退の一途をたどります。

北条氏康

今川家と同盟関係にあり、1563年に上野(群馬県)へ侵攻。
翌1564年には上総(千葉県中部)の里見家との抗争を繰り広げています。

松平元康(徳川家康)

1561年4月に今川方の牛久保城を攻撃し、今川家との関係が悪化。
1562年に織田信長と同盟(清洲同盟)を結びます。
1564年に三河で一向一揆が起こるが、苦心の末鎮圧します。
前回の大河ドラマ『真田丸』で近藤正臣さんが演じた本多正信は、一向一揆に味方し松平家をいったん離れています。

1566年までに三河を統一し、さらに遠江にも影響力を及ぼすようになります。

 

織田信長

1564年、近江の浅井長政と同盟を結び、美濃の斎藤家への圧力を強める。
1565年には伊勢に侵攻、1567年には美濃斎藤家の居城である稲葉山城を攻略し、名前を岐阜城に改める。
武田信玄の四男・勝頼の嫁として、信長の養女が嫁ぎます。
1567年にその養女が亡くなると、今度は信長の長男である信忠と信玄の娘である松姫が婚約します。

親今川路線から親織田路線への転換

信玄には、義信のほかにも男子がいましたが、次男は盲目であったため僧侶となり、三男は1553年になくなっています。四男は武田勝頼ですが、側室の子どもです。

 

織田信長が美濃に侵攻する過程で、国境を接している武田家とも対立をすることになります。信長としては、戦上手な武田信玄との対決はなんとしても避けたい、武田信玄としても今川義元を戦死させた織田信長を侮れないということで、織田家との関係を良くしたいと思っていたのでしょう。

 

今川氏真の敵である織田家から嫁さんを迎えるとなると、当然今川家との関係は悪くなります。ただ今川家には最盛期の勢いがなく、国人たちの離反が相次いでいるなか、これ以上同盟を結んでいても旨みがないと判断したのでしょう。

そして信玄は海を見たかった!

武田家の領地である甲斐(山梨県)と信濃(長野県)は山が多かったので平野も少なく、米作にはあまり適さなかったのです。そして、冬は寒い!一方、駿河は海があり、気候も温暖。海があるということは海運による収入も見込めます。

 

そして、戦国時代の重要な物資であった「塩」
塩は人間の身体のミネラル分を補給するだけではなく、食品の保存にも役立ちます。
海がない武田家にとっては、塩は他国から運んでこなくてはいけません。

ですので信玄にとっては、豊かな土地と海を手に入れる絶好の機会となったわけです。

義信事件とその後の武田家

武田信玄の長男である義信は、永禄10年(1567年)10月19日に東光寺にて死去します。享年30歳。


義信廃嫡の動揺を抑えるべく、武田信玄は家臣と起請文を交わし、さらに勢力を拡大していきます。そして遠江・三河・飛騨(岐阜県北部)・越中(富山県)の一部にまでその勢力が及びました。

 

武田信玄亡き後、武田勝頼が跡を継ぎましたが、1582年には織田信長に攻められ武田家は滅んでしまいます。前回の大河ドラマ『真田丸』では、武田家が滅亡していく様子が描かれていましたね。

 

長篠の戦いでは、信玄時代から仕えていた家臣が多く戦死しました。
勝頼と古参の家臣との仲はあまりなかったようであると伝わっています。

 

もし、不仲の原因を探るとすると、この義信廃嫡事件に行き着くのかもしれません。